日本と天皇陛下と遣唐使の廃止について
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今日は遣唐使の廃止についてです!
当時の日本の情勢やその後の展開の転換期となるエピソードです。
大体5分くらいで読める記事となっていますので最後までご覧ください!
遣唐使とは
元々、聖徳太子の時代に、当時の中国王朝である隋の先進文化を学ぶ という目的のもと始められた遣隋使の唐バージョンです。
隋が滅びたのち、後継王朝である唐にも同じような目的で派遣していた使節が遣唐使です。
遣隋使とは、あの、日出ずる処の天子から日没する処の天子…の国書を送った事で有名です。
当時の中国は、大先進国で、世界で唯一の皇帝を自負していました。
それが、いきなり同等目線でこんな国書を送ってきたら、最悪戦争になりかねません。しかし、そうはならなりませんでした。それには理由があります。
当時、隋は各所に戦いの火種が燻っていて、特に朝鮮半島にあった高句麗とは激しく戦争をしていました。
その、高句麗の後方にある日本が、高句麗側についてしまいますと、自分たちが、たちまち不利になる可能性が有ったため、内容が気に入らなくとも、受け入れるほか無かったと思われます。
当時の隋の皇帝煬帝は大激怒だったらしいのですが、小野妹子の切返しが良かったのか、派遣した聖徳太子のの読みが当たったのか、大事には至りませんでした。
そんな経緯があり始まった遣隋使ですが、その後の遣唐使でも、同じようなスタンスで派遣されていきます。
※遣唐使初期の数回は、白村江の戦いの事後処理交渉もしていたようです。
日本側の文書では、あくまで 唐 と対等スタンスで記載されている一方、中国側の文書では、あくまで遣唐使は朝貢使節で有ったと記載されています。
日本という国号もこの頃使われました。
日出ずる国… 日本という名前はここから来るのでしょうか。
遣唐使の成功率は大体25%と言われていて、4隻に1隻しか帰国できなかったそうです。
日本から、主に原材料をもっていき、唐からは、工芸品や仏教の経典などを持ち帰りました。行って帰ってくるだけで400倍もの利益を上げられるとの説もあり、成功率を鑑みても、十分利益なったようです。
これが、藤原氏など一部の貴族の収入源となり、後の摂関政治につながっていきます。
そんな遣唐使の廃止を進言したのが、藤原氏の対向勢力菅原道真です。あの有名な894年、ハクシに戻す遣唐使です。
菅原道真は、建前では、廃止の理由を、
1学ぶものがなくなった
2優秀な人材を航海で亡くすのは損失
などと言われています。正確には、廃止で無く一時停止だったようですが、9世紀にはいって、唐が滅亡してしまいましたので、そのまま事実上廃止となりました。
では、本音の部分。なぜ遣唐使をやめたのか…
諸説ありますが、
一部貴族の既得権をなくすため
大陸から渡ってくる野蛮人が日本で大暴れしていたから
などと言われています。
歴史の教科書に載ってる菅原道真は、優秀な学者とか官僚のイメージで書かれています。
でも、もし、遣唐使利権を藤原氏から剥がす目的が有ったのならそれは貴族同士の主導権争いにも見えます。
軍配は藤原氏のに上がったようです。
菅原道真は、恨みながら太宰府で死んでしまい、怨霊となって朝廷を襲う。という話は余りにも有名です。
こわいです。
日本は、邪馬台国の時代から、中国の皇帝に朝貢し、倭国王の称号を得ていました。
大国中国の近隣諸国は、中華皇帝のお墨付をもらう形で、その地域支配の裏付けとしていました。朝鮮半島では、ほんの百年前まで、清国皇帝から王様の位をもらってる形をとっていました。
日本は、遣隋使で、、一応推古天皇の事を【天子】と呼び、中国皇帝と同等である旨宣言し、晴れて天皇【皇帝】となりました。
わたしの考えとしては、遣隋使の始まりで独立国として頑張る意思表示をして、遣唐使の廃止で名実ともに独立国となったのかな〜と思います。
どちらにしても、日本とか天皇がこの頃に使われるようになったと言うのは感慨深いです。
ちなみに、韓国人が天皇陛下のことを【日王】と呼ぶのは、皇は中国の皇帝のことのみを指し、自分たちより格下だと思っている日本が、親分中国と同格だと困るからです。
そう馬鹿にして呼んだとしても、日本と韓国の立ち位置とか格は何も変わらないのですが。
とにかく、現在では【皇帝】の格で呼ばれるのは日本の天皇陛下だけです。
長い間、単一王朝で継続してきたと言うのと合わせてわたしは誇らしく感じます。
おわり