manynoneko’s diary

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関ヶ原の戦い

皆さん勘違いされているようですが、関ヶ原の戦いは豊臣軍対徳川軍の戦いではありません。関ヶ原の戦いは、豊臣政権内の主導権争いであり、東軍の総大将は徳川家康ですが、西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元です。

実際に、徳川家康が大阪を離れた隙に、石田三成大谷吉継が戦いの準備を始めると、淀殿は、石田大谷に謀叛の疑いがあるとして家康に手紙を送っています。

その後、毛利輝元が西軍の総大将として大阪城に入城すると、石田たちの動きは黙認するも、秀頼の出陣や、豊臣家からのお墨付きは与えませんでした。

さらに、関ヶ原の戦いが家康率いる東軍の勝利となると、豊臣家の蔵入地を戦の恩賞として授けました。それにより、豊臣家の領地が大幅に減り家康の台頭を許す結果となりました。

淀殿側と徳川側の関係が悪化したのはもう少し後で、家安が関東で武家政権樹立の動きを見せてからと言われています。その後、方広寺の釣鐘事件を経て大阪冬の陣が勃発します。

関ヶ原の戦いから大阪冬の陣までは14年の歳月が立っています。豊臣と徳川が直接対決するまでにこんな長い年月を要しました。

 

ちなみに、豊臣というのは苗字ではありません。豊臣秀吉は死ぬまで羽柴秀吉でした。

豊臣秀吉と書いた時の本当の読み方は、   トヨトミノヒデヨシ です。平清盛とか藤原道長と同じで、 の   が入ります。